緑慎也の「ビル・ヘイビーっち覚えとって」

科学ライターですが、科学以外のことも書きます。

植田康夫先生のお別れ会

4月17日、立花(隆)さんから電話があり、「植田(康夫)さん、亡くなったらしいよ」とのこと。驚きました。でも植田先生ががんを患って手術をしたことは聞いていたので、最近お目にかかっていない間に病状が悪化したんだなと思いました。

しかし、昨日(5月23日)、日本出版クラブで開かれたお別れの会で、最初に挨拶をされた大宅映子さんによると、亡くなる数日前まで、大宅壮一文庫の会合に出席し、自身の執筆計画を楽しそうに語っていたとのこと。近い関係者にとって突然の逝去だったようです。

私は2010年から11年にかけて読書人のアルバイトとして、週に1回、編集部に通い、植田先生の手書き原稿をパソコンに入力したり、出版界のイベントニュースやインタビュー原稿、書評などを書いたりしていました。

読書人編集部に出入りするようになって気になった、というより謎だったのは、何よりも当時編集長だった植田先生です。植田先生と呼ぶ人もいれば、植田さんと呼ぶ人もいる。私は下っ端なので、無難に先生を付けて呼ばせていただきました。

先生と呼ばれる割に、先生らしい威厳はほとんど感じられず、「ちゃんとしてくださいよ」とか「ふざけてないで仕事して下さい」と事務の人や他の編集部員、学生アルバイトにもしょっちゅうたしなめられたほどです。しばしばおやじギャグを飛ばし、そのたびみんなから呆れられていました。

おいおいわかってきたのは、植田先生が、上智大学名誉教授の肩書きを持っていたことです。たしかに「先生」なのです。大学を引退して、読書人の編集長として迎え入れられたわけか。一種の天下りだな。しばらくそう考えていました。

ところが、植田先生は上智の教員になる前、読書人の編集部員だったと知って、さらに謎が深まりました。出版界で実績を残し、引退後に大学に招かれる人は珍しくありません。しかし編集部の記者がキャリアの途中で大学教員となり、教授まで勤め上げた後、その編集部にまた戻ってくるというのはちょっと聞いたことがありませんでした。

ご本人や編集部の事情通に聞けば教えてくれたのだと思いますが、アルバイトの身で人の経歴を詮索するのは、何となく遠慮されました。

しかし昨日、上智大時代、最後のゼミ生で、読書人でも長くアルバイトをし、植田先生と個人的にも深い関係にあった方の話を聞いて、謎の一端が解けました。植田先生は編集部員時代、ある出版学関係の学会に出席したとき、手を挙げて何か質問をした。それが的を射た質問だったらしく、上智大新聞学科の教授の目にとまり、非常勤講師のオファーを受け、次に常勤講師、助教授、教授と出世を重ねたとのこと。常勤講師になった時点で、読書人をいったん退職したものの、顧問の形で関わりを持ちつづけ、上智を停年退職後、読書人に戻ってきた。天下りなんかではなく、読書人の編集部員としての経歴の間に大学教員時代が挿入されているような形なのです。

お別れの会では、旧知の出版社の方と久しぶりにお目にかかって将来の仕事につながそうな話もできました。帰りがけ妻に電話で「それが今日の収穫」と話すと、「植田先生に感謝しないと」と言われ、ハッとしました。植田先生の剽軽で、偉ぶるところが全くない人柄はみんなに愛されました。お別れの会実行委員の人によると120人を想定していたところ、160人集まったとのこと。私が旧知の方と会えたのも植田先生の人徳のおかげなのです。

植田先生、本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りいたします。